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神戸が1年でJ1復帰…J入れ替え戦第2戦
J1、J2入れ替え戦第2戦 福岡1-1神戸(9日・博多の森球技場) J2・3位の神戸が1年でJ1復帰を決めた。後半15分、三浦のクロスをのこぼれ球を近藤が決め神戸が先制。後半39分に布部がヘッドを決め、福岡が同点に追いつかれるも、粘り強い守備で追加点を与えず1-1で引き分けた。

 6日の第1戦も0-0で引き分けているが今年から採用されたアウエーゴール数で福岡を上回り神戸の昇格が決まった。

 敗れたJ1・16位の福岡は1年で再びJ2降格となった。



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サッカー日本代表監督 オシム監督のプロフィール!
イビチャ・オシム(Ivica Osim, 1941年5月6日 - )

現ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ出身のサッカー選手、指導者。サッカー日本代表監督(2006年 - )。

一般的によく紹介されるイビチャの名称は、ニックネーム的な要素が強く、本名はラテン文字で Ivan、、日本語読みでは「イヴァン」である。ジェフ千葉での登録名は「イビチャ・オシム」。愛称のイビチャであるが、原語に近い日本語表記はイヴィツァ。

2003年よりJリーグ・ジェフユナイテッド市原(2005年シーズンからジェフユナイテッド市原・千葉に改称)の監督。基本方針のうち、肉体面では「走力」、精神面では「哲学」の二面的アプローチで、降格危機・低迷から脱したジェフ市原をさらに改革。「賢く走る」「危険なサッカー」がキーワード。

2006年現在でJリーグ最年長監督であったが、次期日本代表監督候補に名前が挙がったため、混乱を避けるために千葉の監督を辞職し、長男のアマル・オシムが千葉の監督に就任した。同年7月21日に日本代表監督に正式に就任。


<選手としての経歴>

1960年 サラエボのFKジェリェズニチャル・サライェヴォ(このクラブのスタジアムは彼の生家の近所にある)でプロとしてのキャリアをスタート。ポジションはフォワード。190cmの長身ながら繊細なボールタッチを持つパスの名手として知られていた。ボールを持ったら離さないとも言われ、テクニックとその独特のリズムから「シュトラウス」の通称で知られた。

1964年 東京オリンピックのユーゴスラビア代表として来日した。日本との順位決定戦では2ゴールを挙げた。

1968年 ユーゴスラビア代表として第3回欧州選手権イタリア大会に出場する。

準々決勝ではフランスから5点を奪い勝利。準決勝でボビー・チャールトンらを擁する当時の世界チャンピオンのイングランド代表と戦い、1-0で勝利するもその試合で重傷を負い、決勝戦に出場できず、またチームも惜しくもイタリア代表に引き分け再試合の末負けてしまう(オシム自身は大会ベストイレブンに選出される)。

1970年 28歳で初めてフランスのRCストラスブールに移籍する。
当時「東側」と呼ばれた社会主義圏では、国外への移籍に年齢制限が設けられる事は一般的だった。

その後、バスティアなどのフランスのいくつかのクラブを渡り歩いた後、再びストラスブールに戻る。

1978年 ストラスブールを最後に現役を引退。
選手生活は12年間で85得点。その12年間でイエローカードを提示されることは一度もなかった。(後にはゲーリー・リネカーも同様の記録を残す。)


<監督としての経歴>

1978年 古巣のゼレズニチャルでコーチの仕事を始める。翌年にはトップチームの監督に。

1982年 副業的にユーゴスラビア代表チームのアシスタントコーチを務めるようになる。

1985年 ゼレズニチャルの監督としてUEFAカップ準決勝まで駒を進めるが、ハンガリーのビデオトンにアウェーゴールで敗れ、決勝進出を逃す。

1986年 ミロシュ・ミルティノビッチ(ボラ・ミルティノビッチの兄)監督の辞任を受け、ユーゴスラビア代表監督に就任。

1987年 翌年に行われる欧州選手権の予選最終戦、イングランド代表にホームのベオグラードにも関わらず1-4で大敗。本大会出場を逃す。オシムは当時は全く気付いていなかったが、既にユーゴ分裂の要因となる、民族問題によるプレッシャーがあったのだろうと回想している。

1990年 FIFAワールドカップイタリア大会でベスト8。このときの代表メンバーには日本でも有名なドラガン・ストイコビッチ、のちにACミランで10番を背負うデヤン・サビチェビッチらがいた。大会後、代表監督のままパルチザン・ベオグラードの監督も兼務することとなる。

この後ユーゴスラビアの分裂が決定的となる。1991年には翌年の欧州選手権の予選通過を決めていたが、この年の夏にスロヴェニアとクロアチアが連邦から離脱し、両国の選手抜きで欧州選手権に臨むことになった。

1992年 ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦離脱を受けて、ユーゴスラビア軍がサラエボに侵攻。イビチャは直前に仕事のためベオグラードに赴いたため、一緒にベオグラードについて来た次男と共に戦火を免れる事が出来たが、セルビア人勢力によるサラエボ包囲戦によって、サラエボに残った夫人と長女は以来1994年に至るまで、サラエボを脱出することが出来なくなってしまった。

ユーゴスラビア軍のサラエボ侵攻とユーゴスラビアという国が壊れてしまったことに抗議する意味を込め、イビチャはパルチザンがレッドスター・ベオグラードに勝ってユーゴカップを制すると、パルチザンとユーゴスラビア代表の監督をどちらも辞任した。この後、国連の制裁決議を受けてUEFA、FIFAはユーゴスラビア代表チームの国際大会からの締め出しを決定する。1992年の欧州選手権で優勝を決めたのはユーゴスラビアに代って出場したデンマーク代表であった。

1992年-1993年 ギリシャのパナシナイコスの指揮を執る。この間戦火のサラエボに夫人と長女を残してのギリシャ赴任であった。

1993年-2002年 オーストリアのSKシュトゥルム・グラーツの指揮を執る。グラーツに赴いてから1年後の1994年にようやく、夫人と長女との再会を果たす。グラーツではUEFAチャンピオンズリーグに3度出場した。
2003年 ジェフユナイテッド市原監督に就任。
2005年 ジェフユナイテッド市原・千葉にてJリーグヤマザキナビスコカップ優勝。
2006年 日本代表監督に就任。


<ユーゴスラビアでの実績・評価>

(サッカーユーゴスラビア代表も参照併読のこと)

イビチャは、ユーゴスラビア紛争終結後もわだかまりの残る旧ユーゴスラビア構成諸国家内各民族の間で、今なおどの民族からも尊敬を集め得る人物の一人であるといわれている。これは数々の困難を乗り越えてユーゴスラビア代表に栄光をもたらした功績によるものである。

彼が代表監督に就任する直前のユーゴスラビア代表は、ヨシップ・ブロズ・チトーの逝去に伴う各民族のナショナリズムの勃興に並行するような形で、試合の開催場所によってチームの構成が大きく変わる有様だった。つまり、ベオグラードで試合をする際にはセルビア人中心の構成に、ザグレブで試合をする時はクロアチア人中心の構成にといった具合にである。

イビチャはこうした民族的な配慮を排除した上で、必要ならば11人全員をコソボのアルバニア人で揃えると言って憚らなかった。こうして完成したチームはドラガン・ストイコビッチ、デヤン・サビチェビッチ、 スレコ・カタネッツを擁したスター軍団となった。

しかし、1990年ワールドカップの初戦ドイツ戦で、各民族のスターばかりのバランスやチームとしての総和を無視したオールスター起用(とオシムについて書かれた本にはあるが、実質上はサビチェビッチのスタメン起用であり、「オールスター」と言うのは過大といえる)を強いようとするマスコミに対して、イビチャは敢えてその通りの起用をし完敗させてみせ、次の試合ではバランスなどを優先したチーム編成を行って勝利し、意趣返しを行った。

これによりマスコミが大人しくなっただけでなく、ユーゴスラビア国民も民族エゴ丸出しでは良くないと知ったのである。以降は勝利を重ね、準々決勝で「天才」と称されるディエゴ・マラドーナが率いるアルゼンチン相手に2人欠きながらも120分間無失点のドローに持ち込み、PK戦で敗れた。
PKでは監督の力も及ばない、運命を偶然にゆだねるものであるとして、イビチャはPK戦を見ずしてロッカーに引き下がってしまった(2005年のナビスコカップでPK戦を見ないでロッカーに引き下がってしまったのも同じ理由。試合後のインタビューで、PK戦にいい思い出が無い、と言っていたのはこの事を指す)。

イビチャが作り上げた最後のユーゴスラビア代表は、1990年のワールドカップでは準々決勝で敗退したものの、2年後の欧州選手権では間違いなく優勝候補の1つになるであろうという評価を得た。

彼自身、1986年の代表監督就任から計画的に世代交代を進めていたこと、そしてタレントも揃っていたことから(事実、彼の見出した選手たちは皆分離した各国の中心選手となっていった)自信はあったそうである。1991年にクロアチアとスロヴェニアが連邦を離脱した後も、欧州選手権出場に向けた努力は続けられた。チーム内にも各民族間の対立が持ち込まれ、チームの団結と維持に多大な労力を必要とした連邦末期にあってもその姿勢は変わらなかった。

しかし、その奮闘は叶わず国の解体に合わせてユーゴスラビア代表も崩壊した。1992年の欧州選手権にユーゴスラビアが出場できていれば優勝していたであろう、と言う者は現在も多い。


<グラーツでの実績・評価>

イビチャ就任以前のSKシュトゥルム・グラーツは、オーストリア・ブンデスリーガの中位から下位に甘んじており、かつ財政難の状況にあった。グラーツはオーストリアの第2の都市でありながらサッカーはどちらかといえば他都市に遅れを取っており、シュトゥルム・グラーツはグラーツァーAKと同じく1部と2部リーグを行ったり来たりするクラブだった。

イビチャはこのクラブに規律と戦術を持ち込み、無名の若手を起用して当時オーストリアリーグでは一般的でなかった走るサッカーを実践し、徐々に成績を上げていき、まもなく優勝候補の常連となった。

就任2年目となる1995年/96年シーズンにはリーグカップ優勝、そして4年目の1997年/98年シーズンにはオーストリア・ブンデスリーガ優勝を果たした。この時のメンバーには後に千葉に移籍することとなるマリオ・ハース、名古屋グランパスエイトでプレーしたイヴィツァ・ヴァスティッチがいた。特にクロアチア出身である後者はオシムの指導で飛躍的な成長を遂げ、オーストリアリーグを代表する選手となった。

グラーツでの名声を確たるものとしたのは、2000年/01年シーズンの三度目のチャンピオンズリーグへの挑戦である。グラーツは1次リーグでレンジャーズ、ガラタサライ、モナコと同組に入り、これを首位で通過。2次リーグでバレンシア、マンチェスター・ユナイテッド、パナシナイコスと同組で3位となり、決勝トーナメント進出はならなかったが、この活躍は十分に評価できるものであった。

しかし、主力を放出していくうちに年々成績を下げ、最後は二人三脚で名声を築いたはずのカリスマ的オーナー、ハネス・カルトニックと対立した状態となり、2001-2002シーズン終了後、クラブから追われるように辞任して去った。カルトニックとは給料不払いなどの契約問題および名誉毀損問題で裁判沙汰になり、今でも係争中(給料不払いについてはイビチャが勝訴)である。


<千葉での実績・評価>

グラーツを去った後、イビチャは新しい挑戦として2003年に日本にやってきた。彼は阿部勇樹をキャプテンに指名、1stステージで初優勝王手まで勝ち進む。しかし首位攻防戦となったアウェイ静岡2連戦で13節:ジュビロ磐田戦に引き分け、14節:清水エスパルス戦ではプレッシャーによる大敗を喫したことにより、王手をかけながらも初優勝を逃した。

また2ndステージでは14節:大分トリニータ戦で引き分けたことにより、実質的な優勝の可能性を失った。しかし1stステージ3位・2ndステージ2位・年間通算成績3位とクラブ最高の成績を記録。そのサッカーは多くのサポーター、サッカーファンを魅了し、彼の名声を高めることになった。

2004年、崔龍洙、中西永輔を放出し、経験・身体的に弱い若手中心となり、戦力ダウンは避けられないと見られていた。又、この年は主力選手の怪我も重なった。しかしながら結果としてタイトルは取れなかったものの2ndステージでは2位、年間通算成績は4位と前年とほぼ同等の成績を残すことができた。資金・選手層に乏しいジェフにおいて、この好成績は、イビチャの監督手腕の高さによるものと評価されている。

2005年、村井慎二、茶野隆行、サンドロ、マルキーニョス、ミリノビッチを放出したが、巻誠一郎が日本代表に初選出、水野晃樹、水本裕貴が、ワールドユース出場を果たすなど、頼もしい存在に成長した事で戦力低下を感じさせなかった。ヤマザキナビスコカップでは準決勝で浦和レッズを倒して決勝戦に進出。決勝ではガンバ大阪と延長、PK戦と激闘を制しチームに初のタイトルをもたらした。

戦術的には「古い」「時代遅れ」と言われる3バック、スイーパーシステム、マンツーマンディフェンスを用いるが、日本の事情に合わせて採用しているという説もある。

2006年、以前から試験的に採用していた2バックを実際に使用しているが、これは単に選手名鑑でDF登録されている選手を2名だけ起用しているにすぎない。対戦相手を鑑て、当日のサッカーを決めるということは変っていない。シーズン途中の7月に日本代表監督への就任が決まり、監督を辞職。



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U-21日本代表、準々決勝進出をかけて北朝鮮と対戦
ドーハ・アジア大会に出場中のU-21日本代表は5日、翌日に2次リーグ最終戦の北朝鮮戦を控え、当地で前日練習を行なった。2連勝で勝ち点を6としている日本は、この試合に引き分け以上の結果を出せば、準々決勝進出が決まる(北朝鮮の勝ち点は4)。

 シリア戦を思惑どおりの形で1対0と制した日本は、その勢いのまま北朝鮮を下し、決勝トーナメント進出を決められるか。Fグループ首位となれば、次戦はBグループ首位の韓国との対戦が決まっている。

 シリア戦の前日には、戦術的な確認に時間を割いた最終調整も、この日は簡単なボール回しに、シュート練習など軽めのメニューに終った。「ミーティングでそうした話はしている。トレーニングを見て、十分対応できると思ったからあえて省いた」(反町監督)。

 ただ、北朝鮮の布陣が3-4-3ということを考えれば、日本の布陣はシリア戦同様の4-3-2-1ということは間違いなさそうだ。一方でJリーグとの日程の兼ね合いで合流が遅れていた家長昭博(G大阪)と細貝萌(浦和)のコンディションが戻っているだけに、スタメンには若干の変更がありそうだ。シリア戦で退場処分を受けた高萩洋次郎(愛媛)は出場停止、逆に青山敏弘(広島)は出場停止が解ける。今日の練習では、本来左サイドの本田圭佑(名古屋)が右サイドに入っていたことなどもあり、中盤の「3」の右に本田圭、左に家長という布陣も考えられる。

 北朝鮮は全体的に小柄ながら前線にはスピードある選手を並べており、その対応はひとつポイントになるかもしれない。水本裕貴(千葉)は「ビデオを見ているので、ある程度のイメージはできている」としながらも、「ちょっとでも油断すれば裏を取られてしまうので注意したい」と警戒を強める。

 また、2試合を失点ゼロで切り抜けるなど北朝鮮は堅守も目立つが、MF本田圭は「ディフェンスが固いというよりも枚数をかけていると思う。みんなで上がってみんなで守るみたいな感じなので、人数が揃わないうちに早い攻撃ができれば。もし、戻られた場合には相太くん(平山)の高さなどを活かしていけばいい」と、その攻略には長身FW平山相太(FC東京)の高さを使いたいとの考えを示した。

 引き分けOKの日本に対し、勝つしかない北朝鮮という図式を考えれば、やや戦いづらさも心配される。だが、反町監督は「ぜひとも勝ってグループリーグを1位で通過したい。最初から引き分けをねらってできるほど、サッカーは簡単なスポーツではない。とにかく自分たちの持っているものを出して腰の引けた戦いだけはしたくない」と力強く意気込みを語った。



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千葉 オシム景気1億円ユニホーム
オシムチルドレンが来季から“1億円ユニホーム”を身にまとう。日本代表のオシム監督(65)が今季途中まで指揮を執った千葉が、来季からユニホームをKappa(カッパ)に変更することが5日、分かった。契約金は破格の1億円(推定)でデザインも変更。来季のリーグ初制覇へ装いならぬユニホームも新たに再出発する。

 選手もサポーターも慣れ親しんだユニホームを“卒業”し、Kappaの新ユニホームでリベンジのシーズンを迎える。関係者によると、低迷期も含め、完全サポートしてきたミズノとの契約が今季限りで切れ、イタリアのスポーツウエアブランド「Kappa」に移行することを決めた。契約金は推定1億円と破格。千葉側はすでに、Jリーグへの申請も済ませた。

 Kappaは海外で松井大輔が所属するフランスのル・マンやドイツのブレーメン、オランダのフェイエノールトなどが着用。国内ではJ2札幌だけだったが、来季は千葉がJ1で唯一の使用クラブとなる。

 オシム監督の下で成長した巻、阿部、水本ら、日本代表6人を含むチームはナビスコ杯を連覇。まさに“オシム効果”が高額契約をもたらした格好だ。ユニホームはこれまでと同様、黄色と紺をベースにするがデザインは変更。動きやすくするためフィット感を強くし、スポンサーやJリーグのロゴを、ワッペンではなく生地に直接プリントすることで、より“動くサッカー”に適したものとなる。

 今季のリーグ戦は11位と低迷。オシム監督の日本代表監督就任や祖母井(うばがい)GMのグルノーブル移籍など、ピッチ外でゴタゴタも多かった。リベンジを期す来季はアマル体制の下、リーグ初制覇へ“身”も心も新たな幕開けとなりそうだ。

 ≪市役所に連覇報告≫FW巻、MF阿部、坂本、DF斎藤が千葉、市原の両市役所をナビスコ杯連覇報告のため表敬訪問した。ただ「連覇より(11位に終わった)リーグ戦の方が大きい」(阿部)と選手の表情は厳しく、巻も市民の前で「皆さんに満足して帰ってもらえるような試合をするので、来年もスタジアムに足を運んでください」とあいさつした。



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ブッフバルト監督 正式に退任表明
浦和のギド・ブッフバルト監督(45)が4日、埼玉スタジアム内で会見を行い、正式に今季限りでの退任を表明した。理由には「プライベートな事情と就任3年間でチームが成長したこと」の2点を挙げた。

今後はしばらく充電期間に充て、米国に滞在する知人で前ドイツ代表監督のクリンスマン氏の元を訪ねる計画も明かした。浦和とはアドバイザー契約を結ぶ方針。また後任には元監督のオジェック氏が有力候補に挙がっており、エンゲルス・コーチの昇格の可能性も残されている。

 ≪来年はACL制覇だ≫浦和の優勝祝賀会が4日、さいたま市内で行われ、ブッフバルト監督以下、全選手が出席した。前社長でJリーグの犬飼基昭専務理事は「Jリーグには日本のクラブをアジアチャンピオンズリーグ(ACL)で優勝させようというプロジェクトがあり、私がそのリーダー。来年はこの場でACLの優勝をお祝いしたい」と話していた。



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